名古屋みなとロータリークラブ

卓話Speech

2024年1月26日(金)(第2692回)例会 No.22

大河ドラマ『どうする家康』
三河一向一揆の舞台 【本證寺】の歴史バックナンバー >

小山 興圓様
真宗大谷派本證寺 住職
小山 興圓

寺伝によると、鎌倉時代、建永元(1206)年慶圓上人により開創。本尊は阿弥陀如来立像(開創当初は聖徳太子孝養像)。山号は雲龍山(かつては醍醐山)真宗大谷派。下野小山城主小山朝政の次男(靭負佐兼光)は、比叡山延暦寺の慈円大師に師事し「性空」と名乗った。野寺の地で布教を始めた上人は、親鸞聖人が上京する途中、矢作柳堂で行った説法を聞き、親鸞聖人の弟子となり慶円と称するようになった。

室町中期になると、本願寺第八世蓮如上人の御教化により、高田門徒から本願寺派に改宗。勢力を広げ、三河の本願寺派寺院としては、岡崎佐々木上宮寺・針崎勝鬘寺と共に、三河国の真宗寺院の中核として栄えた。

永禄5(1562)年、9代玄海上人が加賀一向一揆にて討死されると、本願寺第十一世顕如上人の命により、猶子である堅田慈敬寺(蓮如上人の九男実賢開基)より空誓上人が入寺せらる。

永禄6(1563)年、三河支配を目論む若き松平元康(後の徳川家康)との間で三河一向一揆が勃発。翌永禄7年にかけて、松平家康の家臣は一揆方と家康方に分裂して争った。そこに吉良義昭や荒川義広といった今川派の諸将や、大草松平、桜井松平家といった松平家分家の領主が参戦して三河は大混乱に陥ったため、大久保忠俊の仲介で一揆方の諸将を許して和睦し、三河一向一揆は収束。

家康は和議を破り、一向一揆に荷担した諸寺に改宗を迫り、坊主分は国外退去を命ぜられ、三河では真宗は禁制となった。しかし、天正11(1583)年、家康の叔母である芳春尼の尽力により禁制が解かれて再建され、江戸期には三河触頭三ヶ寺の一つとなった。全盛期には240ヶ寺の末寺を抱える中本山として隆盛を誇る(明治期に制度は解体)

一向一揆で破却されたが、空誓上人のご功績により、鎌倉時代の「聖徳太子絵伝」「善光寺如来絵伝」(いずれも国重要文化財)以下数十点の文化財を所蔵。

なお、寺内町・城郭伽藍を良好に遺す境内地は2015年に国指定史跡となっている。

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